2022,4,27 帯広は風があるがよい日和。30年計画

 

 

 

春苗を買いにゆく店の途中にちびっこ公園という大きな公園がある。サッカー場2面分はある。周りに家庭で育てられたように見える植栽がある。私はこのベンチでお弁当を食べる。このような植栽の公園は見かけない。よい取り組みだと思う。帯広を離れる時、共に暮らした植栽が公園に生かされるなら望外の喜びであろう。ここで一休みして歩き始めると私の手では抱えきれない大きな桜の木がある宅地に出会う。

 

建物は既に解体されて簡単なロープで管理されている。カメラのアングルの場所から毎日家族の方が見つめていただろうと推測する。葉を落とし雪が降り、氷つき、春がくる。満開の桜の花を咲かせて春の喜びを運ぶ。その積み重ねがここにこの巨木を残したのであろう。道ゆく子どもたちもこの木を見ながら成長してゆく。50年以上ここに立っているのだから。

 

私じまいの極意風に30年計画を立ててみる。私は母の家を引き継いだが本当に私で良かったのかと思う時がある。70歳にして知らぬことも多くあることを自覚する。故に母の庭はそのままに畑だった半分にできる程度の植栽を進めている。帯広に来てまず驚いたことはスーパーで見知らぬ人から中国人なのにと話しかけられることであった。え?その人たちを私は知らない。私は戦後の生まれだが、両親はなにひとつ語らなかったし、兄弟が違うと疑ったこともなかった。しかし、一度ならずそんなことがあって捨て子かなにかで父母の子となったのではないかと思うようになった。いまでは遺伝子は中国人であっても、日本人として日本で育った日本人であると思っている。外国で長く暮らし外国人になる人も多い。その意味で私は日本人を選択するしそれ以外では生きられない。中国語も文化もなにも知らないのだから中国人にはなれないのである。

 

小学5、6年の60年安保の時代だが、父母が話していたことが僅かに記憶に残っている。

そこから私なりの予測を立ててもいるが、もはや中国を見たいという思いはない。

 

しかし、身体のなかにもうひとり自分が生きていると思うと飛べる感じです。

困った時も父なる人はこんな秘策を取ったのかと考える。これから30年あるのです。