白い真珠のようなバラが赤いバラになった。

深夜便におやっと気になる話があった。<白い真珠のようなバラが赤いバラになった。>というのである。専門家に問うところでしょうか?答えは簡単です。白い美しい真珠のようなバラは持ち出されはっきりわかる赤いバラを植え替えたのです。実は我が家でも同様の出来事がありました。樹高は高く無い繊細な枝ぶりの香粉蓮こうふうれんがツルバラになったのです。我が家の場合は持ち出されのではなく、香粉蓮こうふうれんの側にぴったりつるバラを植えてありました。つるバラを植え替えると小さくなった香粉蓮こうふうれんがなんとか生き残っていました。桜の下になって植え替えなければと去年から思っていたので、我が家の場合は去年のことだろうと思う。

 

好きなバラは数本買うようにしている。白バラで最も美しいと評されるマダムアルディは3本植えたが、たくさん咲き出したのは今年からである。未だその美しさは途上だが、マルメゾン宮殿の庭師だったアルディーが妻に捧げたというこのバラは不思議なバラである。葉の色は艶のない明るい黄緑。バラの中でも新緑を思わせるこの色は他に知らない。素朴な葉や樹形にアルディーのはにかみを感ずるのは私だけだろうか?

 

アメリカで中絶権の合法性を覆す最高裁判決が出て、今後女性たちはどのように対処するのかとWebに当たる。BBCに大統領は別の州に移動する自由と10週までに妊娠を終了させる経口薬を入手できるように対策を講ずるとあった。裁判で争われた15週は5ケ月に当たり判断の難しい時期であった。大統領のいう10週は3ケ月いっぱいで本人の解りにくい時期である。大人も子どもも性に関する基本的な認識を共有しなければならない。

 

我々の時代よりははるかに対処法は解るようになっているのだから。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

球根類では石狩時代からありましたがバラというのは意外でした。植え替えはかなり前葉の出る前ではないでしょうか?詳しい人でしょうね。

 

植え替えと別に植えた覚えの無いバラが咲くこともありました。何らかのサインでしょうから撤去することにします。

 

 

自足する高齢者に共同を公共が演出できないものだろうか?

4番目に開花した桜。静匂桜は荒川土手で自然交配して生まれたと言われている。朝二階の窓を開けると一晩で立ち込めた香りが穏やかに上がってくる。香りはこのひとときの恵みであとは花弁に近づかなければならない。花は大ぶり花芯は黄緑葉は赤茶、姿が他の桜の様に横への拡がりより直立的である。同じ年数が経っているが、日当たりも建物の影になって他の桜の半量くらいなので姿もかなり小さいが花の付きは他の桜に劣らなかった。

 

5月に入ってバラの植え付けを始める中旬までに全体に堆肥を入れなければならない。昔のようにエイや!とは行かず、予定通りに行かなければ今日は1個堆肥を入れるで、時間は充分ある、急がないと切り上げる。負担のかからないやり方に修正するのが自然になってきている。昨日はラジオで老々介護のご夫婦の話だった。ゆくさき90代を想定してひとり暮らしを始めたわけではなかったので、おいおい考えていかねばならない。

 

自足する高齢者が他者とまた繋がるのが介護というのが現実のようであるが、その間にもう一つのぷらん共同を公共が演出できないものだろうか?

 

今年の課題でもある。

 

2022.4.29 3.11 で人々の権利関係はどうなったか?

居間の戸口に見知らぬ猫が座っている。近所の飼い猫だろうと思うがどこの猫で在るかは定かではない。

 

何故座っているのかも解らない。

何年か前に首の周りの毛が鋭利な刃物で剥ぎ取られて買い物用のショッピングカーに蹲っていた猫だろうか?玄関に出ると物凄い異臭で戸を開けて振り返ると猫である。驚きで身体中に糞尿が付いたのだ。私はバケツ一杯のお湯を沸かしきれいな雑巾をこれもいっぱい用意した。しかし、初めて見る猫なので身体を拭かせてくれるかと話してみた。威嚇はしなかったので了解したと考えて後は傷から遠い足や手から始めた。玄関を開けながら拭いていくと異臭は少なくなった。さて消毒だが、こんな事態を予測していないのでマキロンが充分あるかだった。しかも酷い怪我をして皮膚が剥がれている。我が家でも2匹の猫を飼っていたが、猫は喧嘩が多くていつも怪我対応は二人がかりだったのだから、一人で治療ができるかであった。猫は傷対応をしなければならないと理解していた。あるだけのマキロンと消毒綿で傷を拭いた。本当は獣医さんに見せるべきだがその余裕はないので、かって獣医さんに通い続けた時のアドバイスでヨードチンキを常備していた。しかし、このヨードチンキは痛いのである。私はオリーブオイルをヨードチンキに混ぜて塗布した。なんとか翌日持ちこたえて出ていった。以来どうなったかと思っていた。あのニャンならば良かった。

 

 3.11 で人々の権利関係はどうなったか?を書こうと思っていた。

あらゆるものを流し去った3.11だが、それで人々の最も基本的の土地や身分などの権利関係はどうなったのかが気になっていた。法務局に行った折もし登記簿などが無くなった時の相続はどのような手続きになるかを聞いてみた。煩雑ではあるが、可能であった、その手続きについて説明してくれた。

 

何故そんなことを聞かねばならないかというと、帯広で母の家に住むようになって<この家はいい家だ。><この家を盗る>終いにはよくありげな話まで登場した。話している人も解る音量でどうして私の家に届くのかは解らない。

 

かくして何らかの対策を取らねばならなかった。

 

相続を考えているうちに子どもたちは既に自立している。この土地は両親や家族が住んだ思い出が詰まっている。出来るだけそのままの形で公共の空間にしたいと思うようになった。住まいは解体し2、3台の駐車場とベンチがあればお茶飲みの場所にもなる。これから帯広を離れる人も多くなる。そんな時に公共も参加した柏っこクラブのようなものがあれば草取りから堆肥入れまで自主管理できるではないか。

 

 

今日も写真添付ならず。

 

 

 

2022,4,27 帯広は風があるがよい日和。30年計画

 

 

 

春苗を買いにゆく店の途中にちびっこ公園という大きな公園がある。サッカー場2面分はある。周りに家庭で育てられたように見える植栽がある。私はこのベンチでお弁当を食べる。このような植栽の公園は見かけない。よい取り組みだと思う。帯広を離れる時、共に暮らした植栽が公園に生かされるなら望外の喜びであろう。ここで一休みして歩き始めると私の手では抱えきれない大きな桜の木がある宅地に出会う。

 

建物は既に解体されて簡単なロープで管理されている。カメラのアングルの場所から毎日家族の方が見つめていただろうと推測する。葉を落とし雪が降り、氷つき、春がくる。満開の桜の花を咲かせて春の喜びを運ぶ。その積み重ねがここにこの巨木を残したのであろう。道ゆく子どもたちもこの木を見ながら成長してゆく。50年以上ここに立っているのだから。

 

私じまいの極意風に30年計画を立ててみる。私は母の家を引き継いだが本当に私で良かったのかと思う時がある。70歳にして知らぬことも多くあることを自覚する。故に母の庭はそのままに畑だった半分にできる程度の植栽を進めている。帯広に来てまず驚いたことはスーパーで見知らぬ人から中国人なのにと話しかけられることであった。え?その人たちを私は知らない。私は戦後の生まれだが、両親はなにひとつ語らなかったし、兄弟が違うと疑ったこともなかった。しかし、一度ならずそんなことがあって捨て子かなにかで父母の子となったのではないかと思うようになった。いまでは遺伝子は中国人であっても、日本人として日本で育った日本人であると思っている。外国で長く暮らし外国人になる人も多い。その意味で私は日本人を選択するしそれ以外では生きられない。中国語も文化もなにも知らないのだから中国人にはなれないのである。

 

小学5、6年の60年安保の時代だが、父母が話していたことが僅かに記憶に残っている。

そこから私なりの予測を立ててもいるが、もはや中国を見たいという思いはない。

 

しかし、身体のなかにもうひとり自分が生きていると思うと飛べる感じです。

困った時も父なる人はこんな秘策を取ったのかと考える。これから30年あるのです。

 

何故か携帯にはアップされないのでもう一度あげてみる。

 

 

2022,4,27 帯広は風があるがよい日和。30年計画

 

 

 

春苗を買いにゆく店の途中にちびっこ公園という大きな公園がある。サッカー場2面分はある。周りに家庭で育てられたように見える植栽がある。私はこのベンチでお弁当を食べる。このような植栽の公園は見かけない。よい取り組みだと思う。帯広を離れる時、共に暮らした植栽が公園に生かされるなら望外の喜びであろう。ここで一休みして歩き始めると私の手では抱えきれない大きな桜の木がある宅地に出会う。

 

建物は既に解体されて簡単なロープで管理されている。カメラのアングルの場所から毎日家族の方が見つめていただろうと推測する。葉を落とし雪が降り、氷つき、春がくる。満開の桜の花を咲かせて春の喜びを運ぶ。その積み重ねがここにこの巨木を残したのであろう。道ゆく子どもたちもこの木を見ながら成長してゆく。50年以上ここに立っているのだから。

 

私じまいの極意風に30年計画を立ててみる。私は母の家を引き継いだが本当に私で良かったのかと思う時がある。70歳にして知らぬことも多くあることを自覚する。故に母の庭はそのままに畑だった半分にできる程度の植栽を進めている。帯広に来てまず驚いたことはスーパーで見知らぬ人から中国人なのにと話しかけられることであった。え?その人たちを私は知らない。私は戦後の生まれだが、両親はなにひとつ語らなかったし、兄弟が違うと疑ったこともなかった。しかし、一度ならずそんなことがあって捨て子かなにかで父母の子となったのではないかと思うようになった。いまでは遺伝子は中国人であっても、日本人として日本で育った日本人であると思っている。外国で長く暮らし外国人になる人も多い。その意味で私は日本人を選択するしそれ以外では生きられない。中国語も文化もなにも知らないのだから中国人にはなれないのである。

 

小学5、6年の60年安保の時代だが、父母が話していたことが僅かに記憶に残っている。

そこから私なりの予測を立ててもいるが、もはや中国を見たいという思いはない。

 

しかし、身体のなかにもうひとり自分が生きていると思うと飛べる感じです。

困った時も父なる人はこんな秘策を取ったのかと考える。これから30年あるのです。

 

何故か携帯にはアップされないのでもう一度あげてみる。

 

 

2022,4,27 帯広は風があるがよい日和。30年計画

 

 

 

春苗を買いにゆく店の途中にちびっこ公園という大きな公園がある。サッカー場2面分はある。周りに家庭で育てられたように見える植栽がある。私はこのベンチでお弁当を食べる。このような植栽の公園は見かけない。よい取り組みだと思う。帯広を離れる時、共に暮らした植栽が公園に生かされるなら望外の喜びであろう。ここで一休みして歩き始めると私の手では抱えきれない大きな桜の木がある宅地に出会う。

 

建物は既に解体されて簡単なロープで管理されている。カメラのアングルの場所から毎日家族の方が見つめていただろうと推測する。葉を落とし雪が降り、氷つき、春がくる。満開の桜の花を咲かせて春の喜びを運ぶ。その積み重ねがここにこの巨木を残したのであろう。道ゆく子どもたちもこの木を見ながら成長してゆく。50年以上ここに立っているのだから。

 

私じまいの極意風に30年計画を立ててみる。私は母の家を引き継いだが本当に私で良かったのかと思う時がある。70歳にして知らぬことも多くあることを自覚する。故に母の庭はそのままに畑だった半分にできる程度の植栽を進めている。帯広に来てまず驚いたことはスーパーで見知らぬ人から中国人なのにと話しかけられることであった。え?その人たちを私は知らない。私は戦後の生まれだが、両親はなにひとつ語らなかったし、兄弟が違うと疑ったこともなかった。しかし、一度ならずそんなことがあって捨て子かなにかで父母の子となったのではないかと思うようになった。いまでは遺伝子は中国人であっても、日本人として日本で育った日本人であると思っている。外国で長く暮らし外国人になる人も多い。その意味で私は日本人を選択するしそれ以外では生きられない。中国語も文化もなにも知らないのだから中国人にはなれないのである。

 

小学5、6年の60年安保の時代だが、父母が話していたことが僅かに記憶に残っている。

そこから私なりの予測を立ててもいるが、もはや中国を見たいという思いはない。

 

しかし、身体のなかにもうひとり自分が生きていると思うと飛べる感じです。

困った時も父なる人はこんな秘策を取ったのかと考える。これから30年あるのです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

2022.4.27 帯広はやや風があるがよい日和。30年計画

毎年春苗を買いに出かけるお店への通り道、大きなちびっこ広場がある。まだ遊んでいる人には出会っていないが、家から歩きで30分ほどのこの場所でお弁当を食べる。サッカー場2、3面はある。しっかりした芝生で周りに家庭で育てられたと思われる木があって不思議に落ち着く公園である。機会があれば帯広の公園について調べてみたいと思う。対角線で撮った写真はこうなった。

 

悪魔の手が動いて添付できないので横の小さな写真を参考にしてほしい。

 

2枚目も添付できないが1コマの住宅地の奥に大きな桜の木がある。葉のない時の幹の太さは私の手では抱えられない。多分住宅開発が行われたころ植えられたものなのだとすれば、50年は経っている。住宅は解体されこの桜とツツジだけが帯広のある家族の温もりを伝える。札幌市にみどりの回廊というプランがあったように思うが、高齢化と家族の他都市への移動があって住み慣れた空間だけが残っている。ちびっこ広場の植栽はこうした家庭から移植されたのではないかと思うが、よい方法だと思う。帯広の人たちに見守られていると感ずれば寄贈した方もこころ落ち着く。石狩市では市役所の周りの広いスペースに記念樹や寄贈したい木を植えることができる。帯広でも不在になった家も多く、周りの植栽が当時の暮らしを思わせる。

 

私の母の庭は50年が経っている。植栽された時ツツジなどは2、30年たっている。私の時間も加えると樹齢100年になる。木々にとってはようやくであるかもしれないが。私じまいの極意

を考えると家は解体しそのスペースに車2、3台の駐車場とベンチを置く。子どもたちは既に他都市で自分たちの暮らしを作っている。家族の暮らしたこの場所を路面価で売ったところでお金で残すよりも、このままの姿で公園化したいと思う。あの桜の木の家のように植栽を残したい。このような家が幾つかでき、その後を管理する市民組織ができれば従来の公園だけでなく市民共有のみどりの空間ができる。それに近いものが昔は火防線と呼んだ道に植栽され緑道になっている。帯広にきても車のない暮らしはちょっと出かけて聞いてみることができない。結果この道ななんと名付けられているかを知らない。北栄小学校と周辺の町内会などの組織であるようである。帯広には既にそんな組織があるかもしれないが。今年の課題はネットワーク探しかもしれない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

毎年春苗を買いに出かけるお店への通り道